apriori_37g

言葉が好き

小説(タイトル未定)

それはまさしく春の訪れであった。私の心に爆発するように花開く桜。神の息吹は張り詰めた頬を打った。曖昧な教室の中央に、少女が座っている。絹の様な、やや重く垂れる黒髪は富士宮の白糸ノ滝を彷彿させ、尖った鷲鼻は黒板の奥を向き、滲んだ瞳は我々がまだ見ぬ世界を映しているに違いない。私は彼女に酷く罵られるのを想像した。内臓が熱くなるのが分かった。所謂一目惚れであった。

この日は始業式であった。一つ年下の新入生達がまだ固い制服を着て朗らかな廊下を遊歩している姿を友人と眺めた。麗しい少女が目の前を通り過ぎる度に我々は沸き返ったものの、私の心の内はずっと平静であった。教室の少女は私の頭の片隅に居座った。黒い世界で椅子に座り、私の心臓を一点に見つめては浅く呼吸を繰り返している。
彼女の名前が知りたかった。私は何度も彼女の座っていた席の方へ目を向ける。どんな名だろうか。真弓?光?凛?彼女の名にさえ期待を滲ませた。名は体を表すと言うし、きっと引き裂くように真っ直ぐな名に違いない。私の名字に似合う名だといい。
廊下を歩いていた新入生達は川に流されるように去っていった。鐘が鳴り、私の学級を担任する教師がやって来た。若い女であった。歳は二十前半で、少し明るい栗色の髪で、睫毛がうんと長かった。教師は身体測定の案内と時間割が書かれた紙を配り、ではまた明日。と、微笑んだ。新しい学級になったとはいえ、二年生の私達の始業の日は呆気なく終わり、私は友人に肩を組まれ教室を出た。ラーメンでも食いに行こうと言われた。私はあの少女を最後に一瞥した。彼女は身体測定について書かれた紙を穴が空くほど見つめていた。瞼は落ち、眉はなだらかであった。彼女の名前は分からなかったが、明日にでも分かるだろう。それまで、似合う名を考えることで精一杯だった。

体操着に着替えて外に出た。これ程までに春を愛したことがあったであろうか。今までは寧ろ憂鬱で、まだ見ぬ私に恐れさえしていたものの、今日は舞い上がる蝶に想いを馳せる余裕すらあった。二年生になり二日目にして夢見心地の通学路は散々な嵐の日を思い出させようとしない。

校門をくぐり、下駄箱の前で友人と挨拶を交わしたら、彼はぎこちない表情をして私の耳元で囁いた。「君の教室に心臓病の女がいるというのは本当か?」私は驚いた。そんなことを知る由もなかったし、それを知って何になると思った。「知らない。どうかしたか。」「その女は短命だというんだ。あと一年も保たないらしい。」彼は笑ったような、泣いたような顔をしていた。その女を思っての筈もなく、ただ純粋な好奇心だけであった。「私は知らないが、それはそうと残念だな。教室の誰かが死ぬのか。」彼は酷い言い方だと私を責めたが、実は同じ心持ちであるに違いなかった。
席に着き、よく見渡すと知った顔が何人か見える。沢山の女生徒の姿を幾度と目にしても、やはり私はあの少女を探していた。しかし、一限目の鐘が鳴っても、彼女は姿を現さなかった。
我々は体育館へ向かい身長や体重を計測し、肺を映したり、刺さるように冷たい聴診器を当てられたりした。友人達は女生徒の胸や脚を見てはあれやこれやと論評を重ねていたが、それは実にくだらなく無意味だと薄々勘付いていた。友人の一人に何故そんなに黙っていると問い詰められても、恥ずかしがり屋なのだと茶化されて、卑しくはにかむ事しかできなかった。私の眼中にはあの少女しかいないと言うことなど出来なかった。

最後に、心電図検査が行われた。診断表を眺め列に並ぶ。去年より背は四センチも伸びていたし、体重は五キロも増えていた。このまま私は何処まで大きくなってしまうのだろうかと怖くなった。私の診断表を覗き込んだ友人が、肩を叩き「そういえば、心臓病の女って誰なんだ。」と訝しむ目で女生徒を眺めはじめた。私も顔を上げて女生徒の列に目をやるが、見た目でわかる筈などなかった。すると友人の一人が、「いや、心臓病の女はここには居ない」と言い出した。「心臓病を患っていると知っていて、心電図検査を受けるはずがない。学校の検査はあまりにも簡易的で誤診も多いし、何より分かっている病気を告げられても哀しくなるだけだろう。」その瞬間私の心臓は大きく脈打った。あの少女はいないのか。今日の朝もいなかった。私は急いで女生徒の並ぶ頭部を一つ一つ見た。確かにあの頭部は無かった。全身の血が冷めるのがわかった。彼女はもうすぐ死んでしまうのか。友人は「それは残念。でも、いないと言われても誰が欠けているのかわからないな。なんせ昨日初めて出会った人達ばかりだから。」と、途端に興味を無くし、また女生徒の論評を始めた。
どうしようか。私は彼女が当たり前に生きていると思っていた。その時初めて、私と彼女との未来を、果ての果てまで夢見ていた自分に気づいた。私は彼女と一過性の関係など望んでいなかった。愛し愛された果てに興味があったのだ。白いシルクを纏った彼女を抱いた夢想の私を恨んだ。もし彼女が本当に死んでしまったら、永久の夢になってしまう。
気づけばベッドに寝かせられ、心電図検査が始まっていた。丸眼鏡をかけたおばさんが、私の腹筋に手を当てている。少し待ってから、「お疲れ様です。」と声をかけられ、身体を起こした。私は生きている心地がしなかった。生きているからこそ、心電図検査を受けられるというのに、私という私は殆ど死んでいた。

その後の私は上の空であった。声を掛けられるも反応は鈍く、それを見かねた友人に、「確かに新しい教室は緊張するけれど、僕たち友達なんだから」と大笑いされた。私はそれ程つまらない理由で言葉を詰まらせている訳ではないのだ。今にもむせ返りそうな緊迫感があった。一通り健康診断を終えても、あの少女は教室にいなかった。そのまま今日の全てが片付いてしまった。